フォト

12月5日姪浜愛宕神社の火渡り

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    2012年12月5日に姪浜の愛宕神社で恒例の「火渡し」がありました。 その時の模様です。

2015年住吉神社の玉せせり祭

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    2015年1月3日の住吉神社の「玉競り祭」です。

2016年の住吉神社玉せせり

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    2016年1月3日姪浜住吉神社の玉せせりがありました。

愛宕山への道

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    12月上旬に愛宕山に登った時の写真類です。

福岡西弓道場の紹介

  • 弓道場
    福岡西弓道クラブはその本拠を西体育館に置いているが、その道場の紹介です。
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2020年6月18日 (木)

興徳寺川の堰跡です。

興徳寺の裏手には小山(墓地)がありまたその裏手には名柄川があります。
この川も古くは興徳寺川とも呼称されていたようです。

興徳寺橋がありますが、2-30メートルの上流には農業用水用の堰があったとの記録があります。
その当時の揚水取入れ口がまだ残っています。
写真と手書きの堰のけ様子が描かれています。
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現在は堰は勿論ないのですが、この右側に用水の取入れ口跡が残っています。
興徳寺橋の歩道から南西に向かっての撮影です。

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この取入れ口の道路を挟んでの後方に(青い車の左手)に水門口の昇降機が今でもあります。
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道路を挟んでの撮影です。
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青い車の横からの撮影です。
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道路上から名柄川の水門を上から撮影です。
  (形だけ残っています)
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昭和30年代の名柄川と興徳寺山を対岸の上流からの撮影です。
当時はまだ土手でこの辺りでも魚が種類も数も多く取れていたとの説明です。
左遠方に見えるのが「能古島」です。
牟現在ではマンションなどが建って臨むことはできません。
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現在のこの辺りの写真です。
見ての通りコンクリートで固められ川幅も少し広がっていると思います。
Img_20200208_103546  Img_20200208_103543  Img_20200202_105448

現在の堰は、この上流約5-600mの内浜中のちょっと上流に新しく作られていなす。
 

2020年6月 8日 (月)

興徳寺その4です。

興徳寺の続きその4です。

池の奥の方から望みます。
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右手に池があり先の方に本堂がある裏手です。
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池の中には3つの石柱...何かいわれがあるのか!!
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興徳寺の裏手奥には小山(以前は興徳寺山といわれていた)があります。そこは墓地になっています。
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全体が檀家さんの墓地であろうと思われます。
檀家さんの墓石は多数が立派なものです。
その中ほどに5-6坪ほどの古びた墓地がありよく見ると「大応国師」の墓地です。
国師の墓の入口です。
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国師の墓石です。
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墓の標識柱です。
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2020年6月 4日 (木)

興徳寺....その3です。

興徳寺の唐門を潜ると庭の右手には本堂があります。

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本堂の横の山手には、中ほどに石橋を配した風情のある池があります。
残念ながら池の水は濁ってイマイチでしたが割と大きい造りです。

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奥の方から左手に池があり右正面には本堂が見えます。

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2020年5月24日 (日)

唐門と博多塀

唐門と博多塀について述べます。

 興徳寺には旧202号線沿いの敷地の境界(寺門に向かって右側)に博多塀と、
寺門に入り本堂の庭に入る所に唐門・博多塀があります。
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 博多塀の説明です。

博多塀は豊臣秀吉が九州平定後に進めた博多町割り(当時の戦災復興)
の際に生まれた土塀です。
秀吉が行った九州平定の前には、この地商人の街は大友・毛利・島津たちの
九州制圧争奪戦に巻き込まれて見渡す限り焼け野原になりました。
秀吉の大陸出兵の物資補給基地として博多を重要視したのと地元の商人・町民
たちの思い・願いが相まって戦火・兵火で焼け残った石や瓦等を塗りこめた「土塀」を造った。神社や仏閣や豪商の屋敷に数多く築かれて「博多塀」と言われた。
現在では、他に櫛田神社・御供所町の聖福寺や妙楽寺に復元された
博多塀をみることができます。

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 唐門の説明です。

 扁額のある寺門をくぐっておそらく住居部分=母屋だと思われる建物を
正面に左側に石畳を歩くと本堂・池のある庭に行くところに唐門と博多塀があります。
唐門とは、屋根に唐破風(からはふ)がついた門で鎌倉時代以降室町時代・桃山時代に、
社寺・鄭館などに広く用いられた、と言います。
唐破風とは、中央部が凸型に盛り上がり両端部を凹型の曲線状にした
破 風(屋根の妻側=三角側)を言う。

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2020年5月19日 (火)

興徳寺

興徳寺は旧唐津街道(=旧202号線)名柄川に接する場所にあるお寺です。

臨済宗大徳寺派に属する禅寺で、鎌倉時代に九州探題の北条時定が
1260年(文応元年)に建立する。

南浦紹明(大応国師)は北条時定の女(むすめ)の妙恵禅尼に請われて
1270年(文永7年)10月28日に興徳寺に入山し開祖となります。

在住は1972年(文永9年)12月24日までの2年2か月でした。

1260年 文永元年  北条時定建立
1267年 文永4年  興徳寺の開基式を行う
1270年 文永7年   々 に入山し開祖となる
元からの侵略があることを幕府に警告発信
1274年 文永11年  元寇 文永の役
1281年 弘安4年   々 弘安の役

山号を海晏山で寺院名を興徳寺としました。
   山号とは、中国で禅宗が盛んになった唐の時代から用いられるように
   なったもので、寺院のまえに冠する称号のようなもので多くの寺院が
   山の中に建てられたことから、その山の名前を寺院名の前に付けるよ
   うになった、とあります。

 興徳寺のある小山を昔は興徳寺山、横に流れる川も現在では名柄川ですが
以前は興徳寺川と呼ばれ、旧202号線にある橋は興徳寺橋と現在でも呼ばれています。

  山号で有名なものは、比叡山延暦寺・東叡山寛永寺があります。

道路側からのお寺の入り口です。
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門です。
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扁額です。
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興徳寺の説明看板です。
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2020年5月10日 (日)

姪浜駅前のモニュメント!!

姪浜駅前(南側)の正面に、大きなモニュメントがあります。

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大きな波形に中央部分にウサギがついています。

姪浜の港に伝わる龍王うさぎの伝説をモチーフにして作成したものです。

日本の仏教は、もともと中国から渡来したものですが、当時は中国のお寺に
命懸けで船で渡り数年にわたって修行して、帰りも命懸けで船で帰国したようです。

嵐にあったりして船が難破し、日本に二度と帰ってこれなかった修行僧も多数いたようです。

その修行僧の中に「大応国師=だいおうこくし」という高僧が、中国宋のお寺に
8年間の修行を経て帰国するのですが、その帰国途中の山中でおおかみに襲われていた
ウサギを助けました。助けたウサギを船に乗せて帰国途中に玄界灘で暴風雨にあって
しまいました。
今にも船が沈没しかかったときに助け乗せていたウサギが荒れる海に身を躍らせたところ
荒波がピタッと収まって無事に姪浜の浜辺に帰ることができたそうです。

その時浜辺で空を見上げてみるとウサギがきらきらと光り輝いて舞い上がり、
やがて龍王の姿になって天に消えていった、と説明されています。

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 大応国師とは死後に天皇から賜ったもので「南浦紹明=なんぽしょうめい」は、
姪浜の名柄川横にある興徳寺に請われて開山したという記録があります。

 

南浦紹明の経歴


西暦


邦歴


内  容


1249年~


建長元年~


鎌倉の建長寺にて学ぶ


1259年~


正元元年~


宋に渡り修業


1267


文永4


建長寺に戻る


1270年~


文永7年~


姪浜興徳寺の開山


1272年~


文永9年~


博多崇福寺の住持


1304年~


嘉元2年~


京都の万寿寺に入る


1307年~


徳治2年~


鎌倉の建長寺の住持


1309


延慶2


75歳で死去


 


 


後宇多上皇から「円通大師」の国師号を賜る

 

2020年5月 3日 (日)

姪浜海岸埋め立ての変遷!!

姪浜の海岸はもともとは愛宕山の裾野から西に現在の姪浜マリナタウン前の道路
.....通称「マリナ通り」と言われる線が博多湾の海岸線でした。

これは昭和57年(1982年)から昭和63年(1988年)に行われた埋め立て
工事によって新しい街づくりがされてきました。

埋め立てには海底砂や旧早良炭鉱ボタ山、この時期に行われた旧福岡県庁舎の移転・
解体に伴うコンクリート廃材などを使って埋め立てられました。

埋め立て前・埋め立て中そして現在の上空からの写真やデータを紹介いたします。

***** 埋め立て前

埋め立て前の昭和33年代(1958年)の上空からの写真類です。
195833
昭和40年(1965年)代の航空写真

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昭和38年(1963年)の手書き地図

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昭和50年(1958年)の埋め立て前航空写真
 旧早良炭鉱のボタ山など残っています。
195830

昭和60年ごろ(1985年)埋め立て前....愛宕浜団地だけはすでに埋め立て造成済。
1975150

****** 埋め立て直前

昭和58年(1983年)埋め立て直前の枠のみ作成時の航空写真
198310

同埋め立て前後の手書き地図
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***** 埋め立て直後
昭和62年(1987年)土砂埋め立て直後
19879

同航空写真
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****** その後
平成5年(1993年)ごろ
19935

平成22年(2010年)ごろ
2010

埋め立て後の手書き地図
Photo_20200503103501

埋め立て後の航空写真
202043

2020年4月22日 (水)

昭和40年(1965)代の姪浜上空からの写真!!

昭和40年(1965)代の姪浜上空からの写真です。
全体的に白くみえるのは積雪直後のものと思われます。

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小戸公園周辺

 左上、妙見岬です、その下には神功皇后の伝説で出てくる御膳立です。

その右に小戸山・中隈山(砲台跡39m)その右側海辺には早良炭鉱第二鉱の石炭積み出し用の桟橋が残っているのが見えます。 

(早良炭鉱は昭和37(1962)に閉山)

昭和60(1985)代に埋め立てられて消えていくことになります。

  

姪浜港周辺

 写真中央の海岸に姪浜港があり、その名柄川河口に丸隈山(毘沙門天28)と、西に延びる海岸線は姪浜の地名の由来ともなる「衵の浜=あこめのはま」です。

その内陸に当時は美味しいと知名度もあったといわれる「姪浜塩」が採れていた汐入池が見えます。

 (現在では埋め立てられて小戸北団地に変わっています。)

名柄川上流の少しこんもりしたところが興徳寺山です。

 

愛宕山周辺

 姪浜港の右側(東側)に姪浜中そして少しこんもり部分が鎌倉時代に縁の探題塚です。その東側は姪浜小があります。

更に右の東側に愛宕山の一部の当時名の竹の山です。

その下(南側)の左下から右下に延びている線の様に見えるのが明治通り….当時の路面電車道路です。

その下(南側)に白い空き地の様に見えるのが姪浜ドライビングスクール…...当時は姪浜自動車教習所で昭和37(1962)開設ですからオープン直後です。

 

姪浜駅周辺

 姪浜ドライビングスクールの横から左(西側)に伸びている線が国鉄筑肥線です。

その線を左 (西側) にいくと姪浜駅があります。

その下(南側)には現在の姪浜中央公園がある五塔山(御塔山当時は標高27m)が見えま
昭和40年(1965)代の姪浜上空からの写真をアップします。
全体的に白く見えますが、積雪直後のものと思われます。

 

2020年4月19日 (日)

昭和33年ごろ上空から姪浜・室見・百道など 

60数年前1958(昭和33)の姪浜・室見・百道など上空からの写真です。

1958s33  

小戸公園

 写真の左上には、小戸公園(小戸山)・中隈山(39m)そして十郎川下流の
ヨットハーバーはまだできていない時代です。

最左端上に飛び出たところに妙見岬その下が御膳立です。

その右に早良炭鉱の第二鉱と海にわずかに出ている第二鉱の桟橋と左にボタ山です。

その下に整然と並んでいる炭鉱住宅です。
(
その昔この辺りは砲台町と言われていた。)

その右に汐入池があり横に流れる名柄川….この河口の左側に丸隈山(28m)
毘沙門天でその付け根に汐入れ海水の水門がありました。

丸隈山の左に元寇防塁と姪浜地名の語源になる海岸のあくめの浜です。

 

姪浜旧街地

名柄川上流のくの字に曲がったところに興徳寺山があり、右の方に連なる白い道が
明治通り(露面電車道)でここから枝分かれ(海側)に旧唐津街道....
右に平行して進み再度交わる場所が路面電車の電停(竹の山下停留所)そして姪浜小学校前です。

その姪浜小の小山を超えた海側の白く見えるのが姪浜中のグラウンドです。

 

海岸線に縦線に見えるのが本坑の炭住と思われ、現在ではグッデイ・ベスト
電器あたりですが、その道路側との境の塀は当時の防波堤が残っています。

その右側には早良炭鉱本坑のボタ山や整然と並んだ炭鉱住宅が見えます。

 

その右の川が室見川です。

室見川の東側....早良区

室見川を右(東側)に渡り、川口に中学校その下の扇形の建物がもとの福岡刑務所
さらに右(東側)に修猷館高校です。

その下(南側)にちょっとこんもりが祖原公園(33.2m)で、最下段に右(東側)
から左(西側)にある線は国鉄筑肥線です。

筑肥線に沿って室見川までの下(南側)に一面の田圃・田園地帯ですが、
現在では原・室見・小田部の住宅地と化しています。

 

姪浜駅周辺

筑肥線で室見川を渡りハート型の少しこんもりは五塔山(御塔山)と言われた現在では
姪浜中央公園で、その上(北側)に姪浜駅です。

園姪浜駅から右(東側)にへの字に曲がる所から地下に現在では地下鉄が潜っています。

その分岐の所から右上(海岸の方)に早良炭鉱の引っ込み線が一時あったようです。

 

五塔山(現在の姪浜中央公園)の西側の現在の西区役所・ウエストコートあたりは
当時は池だったとのことです。

2020年4月 5日 (日)

愛宕山のケーブルカー

愛宕山のケーブルカーは昭和3年((1928年)に九州初(日本で2番目)開業。
昭和18年(1943年)太平洋戦争たけなわの物資不足の金属供出により解体し廃業まで約15年間の運営でした。

「欲しがりません勝つまでは」のあの狂気じみた戦争でした。
現在でも話題になるかの国のように、
日本でも当時は洗脳された国民がこぞって鉄や貴金属などの供出の一環でした。

ちょうど現在の室見川から西に愛宕山のぼり参道その丁度
現存の「碇整形外科」がある場所辺りが乗車口だったということです。


愛宕山下の乗り口からの写真です。
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山上の方からの撮影です。
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下側のケーブルカー乗り場の前には電停「愛宕山下」でした。
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愛宕下の電停から西の姪浜寄りの電停「竹の山」から左が愛宕山です。
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当時のケーブルカー乗り場から若干東側の現在の様子です。
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2020年4月 3日 (金)

愛宕山上から室見川方面...昭和30年代

昭和30年代(1955年代)愛宕山の山上から南東方面(室見川・油山・内野方面)を撮影した写真です。
不確かですが、うっすらと積雪後の景色です。

右中央から左中ほどに室見川の鉄橋が見えて通っている線は国鉄時代の筑肥線です。

現在のこの元筑肥線の周辺では住宅・マンションが一体に広がっていますが、
当時はマタマダで小集落以外は一面の田園地帯です。

室見川を渡った左には室見団地(予定地)その先に「原」辺りの住宅もまばらです。

さらに右上にいくと「有田」辺り、その右側「小田部」辺りにも住宅集落はまばらです。

室見川が右から左に流れ、上流は左側にうねって山裾「内野」方面に。

筑肥線の上側(南)は「福重団地」辺り、更に右上には飯盛山です。

撮影された写真の筑肥線の見え方から、愛宕山の山上撮影でも室見川よりの昭和初期に設置されていたとする、
ケーブルカーの頂上の辺りから撮影したのではないかと推測されます。

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しゃしんにある旧国鉄筑肥線は現在では筑肥新道として一般道路になっています。
その鉄橋の室見川手前から逆に愛宕山方面を撮影しました。
当時と比べると現在では全面マンションや住宅で埋め尽くされて
愛宕山もすっかり見えない有様になっています。

頭の方に愛宕山がわずかに見えます。
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同じく建物の頭にわずかに見えます、右には鉄橋に代わる自動車道の橋が見えます。。
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現在の自動車道の橋です、橋の欄干にはSL汽車の車輪を模ったものになっています。
河川敷は遊歩道に整備されています。
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2020年3月26日 (木)

五島山から小戸方面を望んだ昭和19年の写真

五島山とは現在の姪浜駅南のちょうど姪浜中央公園あたりです。

五島山は五塔山・御塔山とも表現されていており、
古墳や石棺があって鎌倉時代の北条氏などの墳墓だったとの記録です。
現在では墳墓などは探題塚(現在の姪浜小之横にある小山)
などに移されて、この地は小山を削られ公園などになっています。

昭和19年の写真....1944年で太平洋戦争の敗戦の前年
この時に終戦にしておけばあの忌まわしい原爆もなく
連合軍に追い込まれて天皇陛下バンザイで無謀な死に方もせず
死傷者も少なかったのに。
そんな時代です。

軍部上層部では敗戦濃いとわかっていたであろうに、
ほとんどの国民は勝利を信じて踊らされ
そんな時代です。

この姪浜でも早良炭鉱の良質の石炭を掘れや掘れや !
軍艦などの燃料として勝利を信じ込まされて
そんな時代です。

昭和30年代の航空写真をみると上空からはハート型の小山です。

その五島山から西方を望んだ写真です。

右端に興徳寺山

左の方に生き松原、さらに遠方うっすらと今津毘沙門天山が見えます。

さらに左から右中央に国鉄筑肥線.....右100mほどに姪浜えきがあります。

企画整理されているのは水田か?
記録では姪浜塩として有名だったという塩田は名柄川の南側であったので.....。

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2020年3月23日 (月)

昭和30年代ボタ山からみた当時の姪浜市街!!

昭和30年(1955年)代の本坑ボタ山から見た姪浜石の石切り場....の写真です。

右下端には埋め立て前の海岸が見えます。
この海岸線には防護岸がありますが、現在のマリナ通りにある
ベスト電器・グッディーの境界にはその護岸がそのまま残っています。

中央の白いむき出しの石切り場の手前には、
当時は路面電車道の方向に小さなトンネルがあったようです。
  (現在の姪浜ドライビングスクール会社からマリナタウンへの道路)

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この石切りぎ場はその後も切り出されて低い丘に変容し
マンションや施設などの建設が進んでいます。

切り出された後の道路の右側には現在の「老人ホーム」「早良病院」があり、
姪浜ドライビングスクールも含めて早良炭鉱の閉山後の「サワライズ」会社に引き継がれているのです。

その先に見えるのは興徳寺山そして生の松原そして長垂山が見えます。

左上には高祖山、右側遠方にうっすらと今津の毘沙門山があります。

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2020年3月16日 (月)

昭和30年代の姪浜街の写真

先の記事...昭和8年のその後20数年後の愛宕山西の竹の山からの写真です。

20数年後の姪浜には旧市街地から南に(姪浜駅方面)に住宅が広がっているのがわかります。
また左手前から右に明治通り(旧唐津街道...電車道)の道路が見えます。

1、左端手前に姪浜自動車教習所=現在の姪浜ドライビングスクールの用地があります。
  この数年後の昭和37年に開場です。

  手前の電車道は、大正時代に西新姪浜間が開通し60年間弱の1979年(昭和54年)迄運転された路面電車道です。
 この辺りに「竹の山」電停があった記録があります。

2、上方遠くに長垂山、生の松原があります。
  その手前中央こんもりした興徳寺がある興徳寺山です。

3、右に小戸その遠方に今津の毘沙門山です。

4、右中央に探題塚そして後々の姪浜小用地です。
  その手前を右に行くと現在のマリナタウン方向です。

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2020年3月13日 (金)

愛宕山の竹の山からの五島山方面

昭和30年代愛宕山の西側「竹の山」から五島山方面の撮影です。
五島山とは御塔山との記録がありますが古墳もあった場所で現在の姪浜中央公園です。

左側に姪浜自動車教習所...現在の姪浜ドライビングスクール...の用地です。
  姪浜自動車教習所の開設は昭和37年1月です。

左上のうっすらが飯盛山と思われます。

中央前方に五島山現在の姪浜中央公園で、その右前に国鉄筑肥線の「姪浜駅」があるはずです。
その右側には陥落池....現在の西区役所あたりです。

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2020年3月 9日 (月)

昭和8年の姪浜写真

愛宕山上西方から姪浜市街の昭和8年に撮影の写真です。

左端にはまだ整地はされていませんが姪浜自動車教習所...現在の姪浜ドライビングスクールの用地です。

その前の道路が明治通り、当時の路面電車道です。
当時はまだ人家も少ないので道路もはっきりと見ることができます。

左上遠くに長垂山・生の松原があります。

その右側の小さなこんもりが興徳寺がある興徳寺山です。

右端遠くに薄く今津の毘沙門天山、手前に小戸・中隈山....現在の小戸公園です。

小戸の手前に旧姪浜市街です。
市街地の小さなこんもりが姪浜住吉神社あたりです。
写真には写ってはいないですが左端には国鉄姪浜駅がありますので、その方向の道路に沿って小さな集落が伸びています。

市街地の手前のこんもりには探題塚があり、その左下には姪浜小用地です。
右中にはマリナタウンへの道路あたりです。

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2020年3月 8日 (日)

愛宕山からみた姪浜市街の古い写真

愛宕山から見た姪浜の市街です。

昭和30年代の姪浜全景です。

左端に現在の姪浜ドライビングスクール
その上に五島山(別の呼び名では御塔山とも言っているようです。)現在の姪浜中央公園です。
その右下には国鉄筑肥線..現在のJR・地下鉄の姪浜駅です。
その上には飯盛山・高祖山.....右の海側の海岸沿い長垂山 そして生の松原です。

その右手前のこんもりは「興徳寺」がある興徳寺山です。
そしてその右に小戸公園・元寇防塁で、中隈山・現在の小戸公園です

遠くに今津の毘沙門山がうっすらと見えます。

右手前には、九州探題の最後の探題渋川氏戦死の埴安神社=探題塚があります。
 この小山は古くは光運寺山また現在でも存在する近くの寺院の万正寺からの万正寺山ともいわれていたようです。

その手前は現在では姪浜小です。

この場所近くに引かれた線は、明治通り元の市電の線になります。

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2020年2月27日 (木)

昭和3~40年代の姪浜中(現在の姪北小)方面

昭和33年の姪浜中方面のの写真です。
当時は姪浜中でしたが、、この地の人口が増えたことで校区編成替えがあり現在では姪北小になっています。

中ほどの小山は丸隈山(志々岐神社=毘沙門天)が見えますが、当時はまだ山(姪浜砂岩)が削り取られていなく健在です。
その手前が姪浜漁港になります。

丸隈山の左方にはまだ姪浜塩の汐入池が残っています。

その先に中隈山・小戸そしてその隣には早良炭鉱の第二鉱のボタ山が見えます。
中隈山・小戸山の手前には小山があって、当時と比べると現在では大きく削り取られています。
  (小戸ゴルフセンターがある北川の小山)

その左側には炭鉱住宅でしょうか?戸建て住宅が整然と並んで見えます。

その先には松林が見えています、元寇防塁跡がある小戸公園の松林そして左側にズーっと生の松林が続きます。
先の方にはうっすらと糸島の小山が、さらに右端..姪浜の対岸になる能古島があります。

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昭和40年代の九姪浜中方面です。

校舎が建て替えられています。

汐入れ池が埋め立てられて「姪浜北団地」が新しく建てられています。
中央に水道水ポンプ塔が......ボタ山がかすかにみえています。
小戸も愛宕浜もまだ埋め立てられる前だと思います。
この海岸側方面の埋め立て後は「西部水処理センター」「マリノアシティ」に変わっていきます。

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2020年2月16日 (日)

旧姪浜漁港周辺の様子と以前の写真紹介!!

丸隈山・志々岐神社(毘沙門天)の対岸は、博多湾側の埋め立て前は漁港で今でも「姪浜魚市場」があります。

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丸隈山・志々岐神社(毘沙門天)の神社のある小山の上から撮影したと思われる昭和30年代前の古い写真です。
左端(手前)には、能古島渡船場の桟橋がありその右側に漁港があります。
さらに右側(漁船の係留が途切れているところ)に現在もある魚市場です。
その後方一帯には旧姪浜集落が広がっています。

中央の小山が愛宕山で、姪浜石の削岩途中の岩肌が見えます。
愛宕山の左側にある三角山が早良炭鉱のボタ山になります。

さらにズーッと左側のちょっとした森が見えるのが現在の西公園で、
この後は一帯は広大な埋め立て地になって変貌します。

右側前方先の山が油山方面と思われ、その手前は当時は広大な田園地帯です。

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現在の姪浜魚市場です、建物の入口には「旧町名 網屋町」の名札がかかっています。


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昭和30年代の古い時代の写真です。
ちょっと上流から、右に現在もある「龍神宮」が見えます。
その先に魚市場です。
先の方には、現在ではマリノア大橋やマンション・建物が林立していますが当時はマバラです。
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水揚げ後でしょうか?  近くの人ものぞき込んでいます。
対岸の丸隈山はまだ削り取られる前の山が残っています。
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ちょっと数メートル下流の漁船の係留や時代の車のトランク部分が見えます。
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ちょっと上流からの対岸の様子です。
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反対側の下流=河口=博多湾からの様子です。
何かのお祭りの様子の古い写真です。
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同じく下流=河口からの作業の様子と風景です。
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当時の能古渡船場です。
中央前方に、当時の早良炭鉱のボタ山、左に伸びているのが第一抗の桟橋です。
右奥が愛宕山、その右手前が姪浜中があり、海岸の護岸は現在では
ベスト電器・グッデイ店舗敷地の塀代わりになっています。
   (マリナ通りの歩道との堺です。)
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この辺りは姪浜3丁目ですか、昔は「網屋町」という町名で
現在でも福岡市東区の箱崎の筥崎神宮の近くにも同じ町名があります。
「網」がつくといえば、有名なのでは東京都内の「小網町」が有名ですが
江戸時代に時の将軍がらみの命名ですが、
これらについては通じて漁港・元漁村ですね。

 

 

 

2020年2月 9日 (日)

丸隈山の周辺

丸隈山の周辺の説明です。
  
昭和38年の手書き地図です。

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1、丸熊山・志々岐神社(毘沙門天)

丸隈山という表示がありますが実際の大きさ・高さはマンションでいえば5~6階程度の高さの小さな丘です。

 (1)昔の丸隈山はもう少し大きかったのですが、姪浜砂岩を切り出したこともあって規模は小さくなっています。
   2つの頂になっていて、陸側の方に現在でも(志々岐神社)毘沙門天があります。

   社と本殿.....と言っても規模は小さな祠です。
   鳥居は簡単に手が届いて社は仏壇ほどの大きさで近在の信者の方が守っているのだと思います。

  Img_0050_20200209093201 Img_0051_20200209093201
   少し手前からの撮影です。
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 上り口は小さな通路です。
 Img_0057_20200209093501  Img_0048_20200209093501

 (2)丸隈山からの展望

  昭和30年代のあこめの浜がマダ埋め立てられていなかった時代です。
  左手前の塩入池はこの時はないようです。直下は元寇防塁です。
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   昭和20年代は左に塩入池や削り取られる前の小山や先にはボタ山です。
   おこめの浜もまだ埋め立て前の健在です。
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  志々岐神社(毘沙門天)の周りは樹々が生い茂って、姪浜周辺の景色は見えにくくなっています。 
  左には団地の水槽塔があるのですが映っていません、左下が元寇防塁跡の公園です。
  左中ほどに中隈山(砲台跡)があり右に西部水処理場さらに右遠方には能古島です。
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  南西方向の写真です、小戸ゴルフ練習場のネット先の方は糸島の山々です。
  Img_0052_20200209132401  

  反対側の北東方面です。
  下が名柄川・昔の姪浜漁港で、その先に愛宕浜・豊浜団地方向です。
  その右前方のビル群は百道方面です。
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  (3)下から見た丸隈山
  元寇防塁跡から見た丸隈山です。
  Img_0040_20200209133601 

  対岸の旧姪浜漁港・市場側からみた丸隈山です。
  Img_0015    Img_0023_20200209133601  
  昭和30年代の同じ撮影場所の風景です。
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  河口...マリナ大橋の下あたりからの丸隈山です。
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  対岸からまともに見た丸隈山です、山の真ん中ほどに毘沙門天の鳥居が
  かすかに見えます。
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  マリナ大橋から見た右に丸隈山、左に旧姪浜漁港・市場です。
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