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12月5日姪浜愛宕神社の火渡り

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    2012年12月5日に姪浜の愛宕神社で恒例の「火渡し」がありました。 その時の模様です。

2015年住吉神社の玉せせり祭

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    2015年1月3日の住吉神社の「玉競り祭」です。

2016年の住吉神社玉せせり

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    2016年1月3日姪浜住吉神社の玉せせりがありました。

愛宕山への道

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    12月上旬に愛宕山に登った時の写真類です。

福岡西弓道場の紹介

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    福岡西弓道クラブはその本拠を西体育館に置いているが、その道場の紹介です。
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2006年3月12日 (日)

名所旧跡その3旧姪浜周辺です

旧姪浜街周辺その他

 旧姪浜町の周辺の古き建物や遺跡など説明します

 <姪浜住吉神社>sumiyoshijinjya
  
姪浜の氏神であり729年~749年(天平年間)に創建で古くは
海岸近くにありましたが、1416年に旧唐津街道の現在地に移転
しました。
祭神は住吉神社のほか神功皇后・志賀三神・武内大臣であり、
江戸時代は黒田藩(福岡藩)の庇護のもと祭られてきました。

           昭和初年の古い写真です。       この写真を見る

 <興徳寺>kotokuji
   旧202号線姪浜の市道、千代今宿線に沿った名柄川の橋
(興徳寺橋ともいう)のたもとに、ある臨済宗の寺です。


   文永7年(1272年)「大応国師
(別の記録では南浦紹名=なんぽしょうめいとあ
るがそれは生存中の名前であり、大応国師は没後の名称になる)
」が中国から帰途開祖
し3年間住職として留ままったとの記録があります。1682年(天和kotokujihondo
2年)に火災に遭いそのため現在の地に移転しました。

       右写真は興徳寺の本堂です。

  大応国師像(重要文化財)と、中世期の雰囲気のある庭園が
有名とあります。kotokuniwazen 大応国師像は、年一回例祭の時に拝観でき
る、とのことです。


   
    
檀家を含めて現在の社会全体の問題もあると思いますが、
   池庭園の手入れは
kotokuniwa5kotokuniwa3イマイチの撮影結果となりました。  1kotokuniwa1       

kotokuniwa2

            

                                               

 
          s2040odokoen
      

          興徳寺の西側の川(名柄川)対岸からの古い写真   
 



 当時は、旧姪浜街道の北側(海側)にIMG_0740あったものが焼失し、現
在の地に移転したとの記録がありました。姪浜6丁目13番あた
りに、旦過だるま堂(たんがだるまどう)や五重石塔が現存しますが、
そこに興徳寺の旦過寮があったと記録があります。

 (旦過寮とは、旅の僧を宿泊させもてなすところで、以前はここに興徳時があ
ったと思われます。)


 
五重石塔は、室町時代に作られたもので、福岡市には曲渕・下
山門と姪浜の三基あったとの記録があり、この石塔は繁層式五
重石塔といわれる形式で、
姪浜石(砂岩)で作られてIMG_0737IMG_0739
いるためだいぶ風化が進IMG_0738
んでおります。基柱側面
梵字が刻んでいる、とあ
りますが、だいぶ風化して
いるため判別できない状況
にあります。

      社や看板など  

 <早良炭鉱(姪浜炭鉱)>

 姪浜には大正の初期から昭和37年まで約50年近く採炭された炭鉱があり、創立は大正3年姪浜炭鉱としてスタートしました。同じ頃、当時の西新町の「福岡鉱業」が発足していて、その鉱区を吸収して昭和4年に「早良鉱業株式会社」となった歴史があります。昭和8年には鉱員数2,200人家族を含めると8,000人の所帯になったとあります。

     当時の福岡市の人口約25万、姪浜が約1万4千と言われていました。

この炭鉱の本坑が、愛宕山北下の豊浜地区・第二抗が姪浜の小戸にあり、そのボタ山などが海岸の埋め立てに使われ、現在の海岸線になったと、あります。

     姪浜中の埋めたて前の海岸と、愛宕浜方面の
                  早良炭鉱本坑のボタ山を望む
   この写真を見る

 <探題神社>

 室見橋から東へ愛宕山南側(旧202号線)の姪浜3丁目の旧唐津街道に入ってすぐ、姪浜小学校の隣(西側)に小高い丘に「探題神社」があります。ここは萬正寺山あるいは興運寺山・探題塚・弘慈山との呼称の記録があります。その隣というか西下に万正寺がありますが、そこの寺領と言われています。そこの山上、と言っても丘かやぶ山みたいなところですが、そこが探題城址で室町時代の足利氏一門で十数代目の、鎮西探題(この頃は元寇などの守備が目的)では最後になる探題の「渋川多堯顕(しぶかわたかあき)」が、この地で自害したとされています。
また、ここは瘧病(おこりびょう=熱の病気)の神様とも言われているそうです。

境内は手入れされていますが、奥のほうは足の踏み場もなく立ち入り禁止になっています。tandaizuka2tandaizuka1 IMG_0608 tandaizuka4 tandaizuka3
  

元寇防塁
  
1274年(文永11年)中国の元軍が九州博多に攻め寄せてきました。日本側は武器・戦力に劣り、集団戦と個人戦の違いの戦法も異なる九州の武士を中心とした日本軍側は惨敗を期したといわれています。その時の偶然の嵐で元軍の敗走で難局を逃れた日本側は、その対策として博多湾沿岸に石築地(いしついじ)を構築することとし、香椎浜から今津長浜
  海岸まで20キロにわたり構築したのが「元寇防塁」といわれています。
   (その偶然の嵐が、その後ずーっと言われている「神風」なのです。)
      
    現在は、海岸地域の埋め立てや開発で元の姿を残しているのはわずかです。姪浜では、マリノアシティ前(小戸一丁目姪浜北団地北側)と小戸公園の小戸ヨットハーバー前の松林の中にその跡地であったとの標識があります。

 元寇と元寇防塁については、さらに詳しく掲載します。(作業中)

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