フォト

12月5日姪浜愛宕神社の火渡り

  • Img_1666
    2012年12月5日に姪浜の愛宕神社で恒例の「火渡し」がありました。 その時の模様です。

2015年住吉神社の玉せせり祭

  • Img_0755_800x600
    2015年1月3日の住吉神社の「玉競り祭」です。

2016年の住吉神社玉せせり

  • Img_1253
    2016年1月3日姪浜住吉神社の玉せせりがありました。

愛宕山への道

  • 06120029meihama
    12月上旬に愛宕山に登った時の写真類です。

福岡西弓道場の紹介

  • 弓道場
    福岡西弓道クラブはその本拠を西体育館に置いているが、その道場の紹介です。
無料ブログはココログ

« 神功皇后(じんぐうこうごう) | トップページ | 昭和30年代の姪浜手書き地図 »

2006年7月15日 (土)

元寇と防塁について

1274(文永11)中国の元軍が九州博多に攻め寄せてきました。武器・戦力に劣り、集団戦と個人戦の違いの戦法も異なる九州の武士を中心とした日本軍側は惨敗を期した。
偶然の嵐で元軍の敗走で難局を
逃れた日本側は、その対策として博多湾沿岸に石築地(いしついじ)を構築することとし、香椎浜から今津長浜海岸まで20キロにわたり構築したのが「元寇防塁」といわれています。

蒙古襲来

 <文永の役>
 13世紀にユーラシア大陸にまたがる世界帝国を建設した蒙古は、文永3年(1266年)以降数度にわたり日本に国書を送った。書式は丁重で穏やかなものであったが内容的には日本を属国化するものであった。時の鎌倉幕府の執権であった北条時宗は断固はねつけ、西国九州の守護を中心に幕府・御家人も含め博多湾に結集し守備を固めた。
 文永11年(1274年)10月19日に25000余の将兵が後方部隊を合わせると40000万といわれる蒙古軍が900隻の兵船で博多湾に来襲し、20日未明に今津・室見川・祖原・百道原・赤坂山にて激戦になった、とあります。
蒙古軍は一方では多々良川方面から上陸し、箱崎・博多の背後から攻めかけてきたためそれらを迎え撃つ約5000の日本軍は苦戦を強いられ、箱崎宮はじめ民家商家はほとんど戦火で消失し、夕暮れには蒙古軍の目標である大宰府の守備もあり、全軍「水城」に退却した、と記録されています。

 日本軍の源平合戦以来の一騎打ち戦法と異なり、蒙古軍は集団戦法であり、日本は始めて目にする鉄砲(そのころは大きな音を発して破裂する焼夷弾レベルの兵器)に驚愕して日本軍は総崩れとなった、とあります。

 その日、日没とともに
①夜襲を恐れたこと②矢玉が尽きたこと③食料が不十分になったこと④それに日本軍が予想以上に勇猛果敢であったこと、からいったん引き払う事が上策と考えたらしい、とあります。
その途上、志賀島沖合いが折りしも冬の北西の突風に、900隻の大船団の大半は沈没あるいは大破して、将兵のほとんどが海の藻屑と消え逃げ帰ったものは4万人のうち2万6500人で約3分の1の軍勢が失われた、とあります。
 来襲の時は朝鮮半島の南端「合浦(がっぽ)」から途中、対馬・壱岐など襲撃しながら博多湾に16日間で到来したが、逃走して合浦に帰り着くまで約1ヶ月かかっている事などが記録として残っています。

 兵力的には格段の差があるのに、神風なるもの(台風)といわれているが、次のような推察があります。
    ①同行していた朝鮮が、蒙古に心から服従していなかったのではないか。
     ②そのため朝鮮で造船した工事に手抜きがあったのでは。
    ③蒙古は広大な大陸での騎馬戦には強いが海上に沿っての戦いに慣れていなく病気などが出た。

 <元寇防塁>
 元軍が再来したときの防備のために博多湾沿岸に「石築地(いしついじ)」=現在は元寇防塁を築く計画が1276年3月に始まり香椎浜から西の今津長浜海岸まで約20キロメートル(一説には14~15キロとある)に高さ3メートル巾3メートルの防塁を築きました。
これには、九州各国の地頭・御家人・寺社・荘園の武士に至るまで、その所領に合わせ労役・費用負担をさせています。
当初の石塁は急ごしらえであったため、風雨や海水の浸食などで破壊されたことから、その後数年にわたり補修工事がされた記録があります。

 <弘安の役>
 弘安4年(1281年)元は日本再征の軍を起こし、2軍に分けた艦船4300席14万の将兵でもって侵攻してきました。先発が6月15日、本隊が合流7月1日に攻め寄せてきましたが、その夜に大暴風雨(台風)が起こり又もや前回以上の大災害に見まわれ、日本攻撃の野望は消え去った、とあります。

  この2度にわたる暴風雨は全くの偶然でありますが、その後の日本人の心の中に神の国・神風が特に軍部に強く盲信があり「神風特攻隊」につながった、とあります。

  その後の第二次大戦を含めて、このことが「神国日本」の誤解のもと不幸な経験に走ったのではないかと思います。

 最近とみに「反日!!反日」と騒いでいるどこかの国があるけど、60なんなんとなる私たちでさえも記憶にない「中国・朝鮮半島への侵略そして虐たげてきた」その「お詫び行脚」を孫子の代これからも、いつまでしなければならないのか、と思うとき、これらの調査をやってみて「お前たちもやってきたではないか」と言いたいのは、何か間違い?。

 <九州探題>
 その後、3度目の日本遠征の企てがあったようであるが、鎌倉幕府は文永の役後、九州探題を設置し姪浜に奉行所を設け鷲尾城(愛宕山の西側の興蓮寺山・・・今は宅地造成などで名残少なし)を築いた、とあります。この姪浜奉行所が鎮西探題と称せられる様になって、長い間九州の政治・。文化の中心であった大宰府に代わり、九州支配の中心が博多に移ることになったのです。

 <姪浜の元寇防塁>
 防塁は、香椎から今津まで全長約20キロメートルにわたる海岸 に築かれたものでりますが、生の松原その西の今津にその一部が残っていますが、それは埋め立てもないこともあり、当時の海岸線とあまり変わっていないためです。
姪浜から香椎の海岸線までの防塁は、埋め立てなどのため海岸線が北側(博多湾側)に移動して町中に取り込まれたり、持ち去られ敷石や石垣などに利用され消滅してしまいました。

  <小戸公園内の跡地                   

 小戸ヨットハーバー横の松林に跡地表示があります。

  <マリノアシティ道路の反対側>

 姪浜北団地の北側に、その跡地公園と表示があります。

« 神功皇后(じんぐうこうごう) | トップページ | 昭和30年代の姪浜手書き地図 »

コメント

  姪浜に 行くんで、 ぜひ NHKで 放映していた
<元寇防塁>
           この目で見てみます。
 

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 元寇と防塁について:

« 神功皇后(じんぐうこうごう) | トップページ | 昭和30年代の姪浜手書き地図 »

最近の写真

  • 30_20200618154001
  • Img_20200202_105448
  • Img_20200208_103543
  • Img_20200208_103546
  • Img_20200514_103859
  • Img_20200514_103917
  • Img_20200514_104033
  • Img_20200514_104122
  • Img_20200514_104140
  • Img_20200514_104151
  • 2020521
  • Img_20200514_102701